ゴジラを食うには一口ずつ確実にだ
久しぶりの更新になりますが、これは何のタイミングというと、『ハウス・オブ・カード』のシーズン5の配信が決定し、その予告編が正式に公開されたその日、という感じで。
タイトルのまんまなんだけど、庵野監督『シン・ゴジラ』を観て、且つ『ハウス・オブ・カード(略称・HoC)』を観ようとしている、もしくは私と同様にHoCのシン・シーズンを楽しみにしているという人にしか分からない独り言であるのでご留意を。というか酔っ払って、書きたいように書いてるだけなので、補足説明とかも書かないからヨロシク。
シン・ゴジラにおいて庵野監督は(庵野の案かどうか実際のところは知らないけどたぶん庵野案だろう)「虚構vs現実」というコピーを掲げた。これが何を意味するかはまぁ映画を観た人なら分かりますね。観なくても予告観たら勘の良い人は分かるかもしらんけど。
上質なモノを愉しむには上質未満のモノを知らなくてはならない。
もっと砕いて言うならば、こだわりのスープを愉しむためには、ラーメンに対するハードルは低ければ低いほど良い。
虚構(フィクション)を心の拠り所とし、あるいは生き甲斐や働き甲斐としている人達なら承知の通り、ある程度の上質な虚構を楽しむ為には、その地盤としてとても醜く、且つ面白くもなく、それでいて身近な政治やニュースを知っておくとよりフィクションの上質さに対して敏感になれる。なおこれは同時代的な作品に限るけれども。例を広げて言えば理系の知識が多いほどハードSFを楽しめるかもしれないし(知識がある故に突っ込まざるを得ないという状況は広義的にはその作品を愉しんでる範疇である)、歴史を知っていれば、あるいはその人文学的背景を知っていれば…と例を挙げればキリがないけども、要するに「リソースは多ければ多いほど良い」。ただしそれはただのリソースでしかないわけです。虚構主義者にとっては。
そういうわけで、シン・ゴジラ以降、森友学園問題が浮上したり、HoCのシーズン4以降、トランプが大統領に就任したり、その他まぁ色々あるわなニュースは。
現実はときたま虚構を超えてくる展開をブチかましてくるのだが、現実に失望すればするだけ、虚構に期待するハードルは下がり、フィクションのクオリティは上がり、相対的に虚構に生きたいと常々から願ってやまない人々はハッピーになれるのである。
テメー何が言いたいんだって、家庭問題にぶち当たり、実存的問題にぶち当たり、社会での立ち回り方に迷っている私が辿り着いたオアシスが灯台元クライシス(意味深)だったフィクションだったわけ。別にお前ら生きるのつらいならすぐにゴジラ観ろとかHoC観ろとか言ってるんじゃないです。ただ、たまたま自分にとってタイムリーだった『シン・ゴジラ』と『House Of Cards』という二作が「現実vs虚構」をやっているかのように見せかけて、その実、
虚構vs虚構
だったということを言いたいわけです。
HoCの新シーズンに備えて、シーズン1から総復習をしている真っ最中なんだけども、別にこのドラマそんな大昔に観たわけじゃないのに、記憶違いの箇所があって(詳しくはTwitterに書いた)なんでだろう?と思ったら、たぶんだけど、たぶんだけどね。たまたまシーズン1の8話を観、このドラマにおいては珍しくとあるシーンに登場する主人公およびその旧友に共感していたんだと思います。本来そういうドラマではないのにね。
その旧友は、まさに元恋人と言っても過言でも無いであろう主人公フランクに酔った勢いでこう言う。
「俺は川下りが好きだ。目先の急流のことだけに集中していればいい。」
処世術を明かすというのはキスを交わすのと同等の意味ではないだろうか?
だから私は、彼とフランクがキスをしたと記憶違いをしてたのか?わからん。わからんけどキスはしてないみたいだ。でもしててもしてなくてもこの際関係ないのだ。
なんか書きたいことの趣旨が違ってきたし、今英語版のキーボードで打っててすごくタイプミスがイライラするので中途半端だけどこの辺で終わります。あとは察して。